2022年 7月

『いまこそ葉隠』を読んで熟々想うこと【後編】

~常朝得意の「逆説」による死生観~
功労会員 吉村照治  

3.プロローグ「夜陰の閑談」と「四誓願」
『葉隠』の序論は「夜陰の閑談」で始まり、締めくくりは、根本精神を謳った「四誓願」で終っている。原文は次の様に述べている。「御家来としては、国学心懸くべき事なり。今時、国学見落としに相成り候。大意は御家の根元を落ち着け、ご先祖様方の御苦労、御慈悲を以て御長久の事を本づけ申すために候」と。続けて「釈迦も孔子も楠木も信玄も、終に龍造寺・鍋島に被官懸けられ候儀、これなく候へば、当家の家風に叶い申さざる事にて候。余所の学問無用に候」と。前段は国学の重要さを説いている。国学とは、歴代藩主や藩主に仕えた先祖達の事跡を学ぶことと言っている。後段は藩祖直茂、初代勝茂の教えを主従皆が守って行けば、人々は落ち着き、国はしっかり物静かに治まると。我等の殿は日本一と自慢している。序論の締めくくりとして、有名な「葉隠四誓願」を取り上げ、その根本精神に四項目を挙げている。
1、武士道に於いておくれ取り申すまじき事
1、主君の御用に立つべき事
1、親に孝行仕るべき事
1、大慈悲を起こし人の為になるべき事
この後、次の原文が続き、改めて確認している。「四誓願を毎朝、仏神に念じ候へば、二人力となって後へはしざらぬものなり。尺取り虫の様に少しづつ先へにじり申すものに候。仏神も先ず誓願を起こし給うなり」と。
4.「武士道といふは死ぬことと見附けたり」の真意
このフレーズに関する常朝・陣基の本心、真意はどこにあるのだろうか。原文は次の様に述べており、改めて真意が伺える。「武士道とは死ぬことと見附けたり。二つ二つの場において早く死ぬ方に片附くばかりなり。別に仔細なし。胸すわって進むなり。図に当らぬは犬死などといふ事は、上方風の打上りたる武道なるべし。二つ二つの場にて図に当たるようにするには及ばぬ事なり。我人生きる方が好きなり。多分好きな方に理が附くべし。若し図に外れて生きたらば腰抜けなり、この境危きなり」と。常朝は死を礼賛し、つべこべ言わずに死ねばいいのだと言っているのではない。人は誰しも死ぬより生きる方が好きであるとも言っている。人命を軽視していた訳ではない。いつも死を覚悟しておくことによって充実した「生」を獲得することが出来ると言っている。このことについては、常朝得意の「逆説」を読み取ることが重要である。『葉隠』を象徴する一節一句を熟読玩味すれば「死」を美化する哲学ではないことが分かって来る。作家三島由紀夫は『葉隠』を“逆説の本”だと言っている。また自由と情熱を説いた書であるとも語っている。「死身」「死狂い」について説いた常朝は、原文で次の様なこともサラリと言ってのけている。逆説手法を採用するのにいささかの躊躇もない。「人間の一生は誠にわずかの事なり。好いたことをして暮すべきなり。夢の間の世の中に好かぬ事ばかりして苦を見て暮すは愚かなる事なり。此の事はわろく聞いては害なる事ゆえ若き衆などに終に語らぬ奥の手なり」と。
おわりに
『葉隠』の文中には、幾つかの代表的な言葉を発見する。「奉公」「武勇」「曲者」「死身」「追腹」「諫言」「慈悲」「国学」「浪人」「忍恋」などである。ここには佐賀藩の戦国時代から江戸中期までの武家社会における習慣、意識行動を垣間見る事が出来る。多くの研究者や歴史家、小説家が「武士道とは死ぬことと見附けたり」を評論している。新渡戸稲造著の『武士道』を翻訳した歴史家奈良本辰也は「思想の偉大さは極端論の中にのみある」と。『葉隠』は江戸期においても極端論にあったに違いないと述べている。「歴史に知恵を、先人に英知を学びつつ」未来に向かって前進していく所存です。
令和4年5月吉日

新刊『いまこそ葉隠』(中央・大草秀幸著)
葉隠研究誌(左) 小説葉隠(右・奈良本辰也著)
『いまこそ葉隠』を読んで熟々想うこと【前編】

~常朝得意の「逆説」による死生観~
功労会員 吉村照治  
はじめに
平成30年に発刊されたジャーナリスト出身の大草秀幸著『いまこそ葉隠』は、現代人の心に倫理の新風を与えている。本書は江戸期の古典哲学として武士の生き様を語った『葉隠』(11巻・1,343節)が明治39年、初めて活字本となってから現代に至るまで、人々にどのように読まれ、人生の糧を与えて来たかを通観する体裁を取っている。『葉隠』に流れる倫理は、現代社会に生きる我々に多くの示唆と教訓を与えてくれる。口述者、山本常朝(1659~1719)は筆録者、田代陣基(1678~1748)に、「この本は追って火中すべし」と申しつけていたが、現に逞しく生き残っている。わが国の精神世界を貫く「1本の柱」の様である。古今東西のあらゆる哲学書に引けを取らない存在となっていることは、大いに注目される。肥前佐賀という一地方に生まれた古典であるが、日本の伝統的武士道の「教典」として、また「人間形成の書」として読み親しまれている。300年余りの時空を超えて、人としての生き様を問う魅力や心に衝撃を覚えるのは何故だろうか。著者は今こそ『葉隠』の船に乗って「倫理の海」に船出しようと呼びかけている。原文、現代語訳、注釈の3点セットで企画編集。505頁に及ぶ大書。読み易い内容・解説が特徴である
1.二人の武士の出会いと『葉隠』の誕生
『葉隠』は前佐賀鍋島藩士、山本常朝と田代陣基の合作である。二人の初めての出会いを象徴する次の2句は感動を与える。
<宝永7年(1710)3月5日、初めて参会>
◎浮世から何里あろうか山桜(古丸-常朝の雅号)
◎白雲や只今花に尋ね合ひ(期酔-陣基の雅号)
常朝は万治2年、佐賀市片田江で生まれた。9才で佐賀藩2代藩主鍋島光茂の御側役となった。御歌書役、江戸書物奉行、京都御用など殿の側にあって要職を重ねた。光茂の死と共に、33年間務めた職を去り剃髪出家、城下の北方3里の金立山麓黒土原の草庵に隠れた。42才の時である。10年後、この草庵を訪ねて来たのが陣基。第3代藩主綱茂の右筆であったが、突然役を解かれ浪人となった。33才の時である。藩中でも曲者として評判の高かった常朝の徳に惹かれ、小雨の中、夜明け前の山道を歩き通して草庵を訪ねている。陣基の一途な思いに、常朝は「良くぞ訪ねて来られた」と応待。一方陣基も「只今常朝様にお会いすることが出来ました」と喜びを表現している。この時の出会いから7年間、木の葉隠れの草庵で二人の閑談が続いた。『葉隠』は享保元年(1716)8月、江戸で紀州藩主吉宗が、第8代将軍に就いた翌9月に編集を終えている。「武士道といふは死ぬことと見附けたり」と言う有名なフレーズの出現は、『葉隠』完成後から、ずーっと後の明治39年のこと。この本が活字本となって、広く読まれるようになると、書き込まれた内容の深さに打たれ、学び研究する人が次第に増えて行った。『葉隠』は「葉隠論語」とも言われ、江戸期の古典哲学書となった。民主主義の現代に、封建制度を支えた武士道を語るのは、「木に竹を継ぐようなものである」が、正義・倫理を揺るがせにしない『葉隠』の精神・真髄をのぞいて見るのも大切なことと考える。
2.山本常朝の恩師二人の存在と影響
第2代藩主光茂は歌道に熱心で古今和歌集の解釈について、最高の栄誉である「古今伝授」を受けるのが宿願であった。若殿綱茂のお相手も仕事と心得、たびたび出仕していたが、いつの間にか役目を外された。江戸参勤のお供も次第に無くなり、無為の日が続き情熱も萎えて武士を捨てようとまで悩んでいた。そこで佐賀市大和町に隠棲している湛然和尚を訪ね教えを請うた。彼は鍋島家菩提寺(高伝寺)の第11代住職を務めた禅僧。常朝は住職のもと修行を積み仏法を学んでいる。葉隠四誓願の一つに「大慈悲を起こし人の為になるベき事」がある。これは前の三誓願とは思想が異なり、仏教より学び取った精神である。『葉隠』の原文は次の様に述べている。「武士たる者は、忠と孝を片荷にして、二六時中、肩の割入る程、荷なうてさへ居れば侍は立つなり」と。もう一人の師は佐賀藩随一の儒学者石田一鼎である。初代藩主勝茂に仕え、その遺命によって光茂の御側相談役となった。彼は孤高剛直の人で光茂が「追腹禁止令」を打出した時、異論を唱えて退けられた。伊万里の山代郷に幽閉。寛文2年(1662)、8年間の蟄居が解かれ大和町に移り住んだ。常朝は彼のもとで儒教を学んでいる。
※「葉隠四哲」と言う人物がいる。葉隠の主役は山本常朝と田代陣基であるが、常朝の恩師である湛然和尚と石田一鼎を抜きに語ることは出来ない。この4人を称し、佐賀では、葉隠の四哲と呼んでいる。
【後編へ続く】

「関西佐賀県人会」の皆様、日頃より鳥栖市へのご支援誠にありがとうございます。

鳥栖市の面積は71.72平方キロメートルで、県内10市の中で最も面積の小さな市ですが、そんな鳥栖市内にも国史跡や県史跡に指定されている遺跡や古墳がいくつかあります。

その中で今回は「勝尾城筑紫氏遺跡(かつのおじょうちくししいせき)」をご紹介します。

~~~「勝尾城筑紫氏遺跡」~~~

鳥栖市の北西部の牛原町、山浦町、河内町にまたがる城山(じょうやま)山麓一帯に、戦国時代後期(約400~500年前)に鳥栖地方を本拠として東肥前(佐賀県東部)や筑前、筑後にかけて勢力を奮った筑紫氏の勝尾城筑紫氏遺跡があります。

勝尾城を中心に麓の館跡をはじめ、谷をぐるりと取り囲むように鬼ヶ城(おにがじょう)、高取城(たかとりじょう)、葛籠城(つづらじょう)、鏡城(かがみじょう)、若山砦(わかやまとりで)の5つの支城、さらに館跡からはじまる谷間には家臣の屋敷跡、寺社跡、町屋跡や土塁、空堀等の城下跡が良好な状態で残されています。その規模は東西約2.5km、南北約2kmに及びます。

城下町の構造としては、河内川に沿って西側の谷奥から城主筑紫氏の館並びに重臣クラスの屋敷を中心とする領主支配の中枢的な空間、2番目は高取城の北側で東西に流れる河内川を境に、北に家臣屋敷と寺社、南には伝春門屋敷の空間、3番目は四阿屋神社と葛籠城及び付随する屋敷の空間、4番目が城下においてもっとも外側に位置し、主に町屋を中心とする空間で構成されています。これらの城下空間に対し、谷を遮断するように4つの長大な堀と土塁が構築されることにより領域区分と城下防備を行っています。

全国的に、戦国時代の城下町のほとんどが現在、市街地になっていたり、開発等により改変されている中で、当時の姿を止めている勝尾城筑紫氏遺跡は戦国時代の城下町の姿を知る上で大変重要な遺跡との評価を受けています。

鳥栖市ホームページに紹介動画を掲載しておりますので、ぜひご覧ください。

問い合わせ
鳥栖市教育委員会事務局 教育部 生涯学習課 文化財係
〒841-8511 鳥栖市宿町1118番地
TEL:0942-85-3695 FAX:0942-83-0042

~関西各地で「佐賀県フェア」を開催~

2020年以降、コロナ禍の影響で全国的に経済活動へのダメージが大きい中、佐賀県では関西圏、関東圏への市場拡大キャンペーンを展開中です。今回は、今年の上半期に私が覗いて見たフェアの中から何件かをご紹介したいと思います。大阪でのフェアでは、佐賀県 関西・中京事務所のスタッフの皆さんが大活躍。訪れたお客さんに、特産品に佐賀県の魅力を乗せたPR活動に汗をかいておられました。

私にとっての佐賀県の特産品といえば、「小城羊羹」「松露饅頭」「丸ぼうろ」「呼子のイカ」「うれしの茶」「ゆずこしょう」「佐賀のり」等々が頭に浮かびますが、皆さんは如何でしょうか?まだまだ、挙げればきりがないですね。

そんな中でも最近特に売り出し中なのが「いちごさん」佐賀県ではハウス栽培が盛んで、甘味と酸味の絶妙なバランスが魅力の逸品です。そして、ハウス栽培と言えば「ハウスみかん」は生産量全国1位。そこに、新人がデビューしました。「にじゅうまる」というネーミングの如く、少し大き目のみかんでして、濃厚な甘みの後にサイダーを飲んだような爽やかな酸味が口の中を潤してくれる新商品です。皆さんのお近くの百貨店やスーパーでも店頭に並ぶと思いますので是非ご賞味ください。

今後も関西で開催される「佐賀県フェア」を関西・中京事務所を通じてご案内したく思いますので足を運んで頂けると幸いです。

   
  

(広報部会・於保記)

「関西佐賀県人会」の皆様、日頃より唐津市へのご支援誠にありがとうございます。

唐津市が誇る特産品には、皆様もご存じの、今が旬のハウスミカン(生産量日本一)や呼子のイカ(全国的にも有名なイカの活き造り)、唐津Qサバ(九州大学との共同研究で生まれた完全養殖のマサバ)、唐津焼(伝統工芸品)などがございますが、今回は、「北波多の梨」をご紹介させて頂きたいと思います。

~~~「北波多の梨」~~~

JAからつ管内で生産される「梨」の栽培地は、唐津市北波多志気(しげ)の山中に位置しています。

肥沃な土地、山からの天然水で育った梨は、風味豊かで、「幸水」「豊水」「新高」「愛宕」など、7月から12月まで切れ目なく、おいしい梨があります。

贈答用やお取り寄せなど、関西佐賀県人会の皆さまにもぜひ食べて頂きたい、唐津市自慢の一品です。

唐津市 経済部 からつブランド・ふるさと寄附推進課 兼 唐津焼振興室

〒847-8511 唐津市南城内1番1号 大手口センタービル6階

TEL:0955-72-9196 FAX:0955-72-9203

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