『いまこそ葉隠』を読んで熟々想うこと【前編】
~常朝得意の「逆説」による死生観~
功労会員 吉村照治
はじめに
平成30年に発刊されたジャーナリスト出身の大草秀幸著『いまこそ葉隠』は、現代人の心に倫理の新風を与えている。本書は江戸期の古典哲学として武士の生き様を語った『葉隠』(11巻・1,343節)が明治39年、初めて活字本となってから現代に至るまで、人々にどのように読まれ、人生の糧を与えて来たかを通観する体裁を取っている。『葉隠』に流れる倫理は、現代社会に生きる我々に多くの示唆と教訓を与えてくれる。口述者、山本常朝(1659~1719)は筆録者、田代陣基(1678~1748)に、「この本は追って火中すべし」と申しつけていたが、現に逞しく生き残っている。わが国の精神世界を貫く「1本の柱」の様である。古今東西のあらゆる哲学書に引けを取らない存在となっていることは、大いに注目される。肥前佐賀という一地方に生まれた古典であるが、日本の伝統的武士道の「教典」として、また「人間形成の書」として読み親しまれている。300年余りの時空を超えて、人としての生き様を問う魅力や心に衝撃を覚えるのは何故だろうか。著者は今こそ『葉隠』の船に乗って「倫理の海」に船出しようと呼びかけている。原文、現代語訳、注釈の3点セットで企画編集。505頁に及ぶ大書。読み易い内容・解説が特徴である
1.二人の武士の出会いと『葉隠』の誕生
『葉隠』は前佐賀鍋島藩士、山本常朝と田代陣基の合作である。二人の初めての出会いを象徴する次の2句は感動を与える。
<宝永7年(1710)3月5日、初めて参会>
◎浮世から何里あろうか山桜(古丸-常朝の雅号)
◎白雲や只今花に尋ね合ひ(期酔-陣基の雅号)
常朝は万治2年、佐賀市片田江で生まれた。9才で佐賀藩2代藩主鍋島光茂の御側役となった。御歌書役、江戸書物奉行、京都御用など殿の側にあって要職を重ねた。光茂の死と共に、33年間務めた職を去り剃髪出家、城下の北方3里の金立山麓黒土原の草庵に隠れた。42才の時である。10年後、この草庵を訪ねて来たのが陣基。第3代藩主綱茂の右筆であったが、突然役を解かれ浪人となった。33才の時である。藩中でも曲者として評判の高かった常朝の徳に惹かれ、小雨の中、夜明け前の山道を歩き通して草庵を訪ねている。陣基の一途な思いに、常朝は「良くぞ訪ねて来られた」と応待。一方陣基も「只今常朝様にお会いすることが出来ました」と喜びを表現している。この時の出会いから7年間、木の葉隠れの草庵で二人の閑談が続いた。『葉隠』は享保元年(1716)8月、江戸で紀州藩主吉宗が、第8代将軍に就いた翌9月に編集を終えている。「武士道といふは死ぬことと見附けたり」と言う有名なフレーズの出現は、『葉隠』完成後から、ずーっと後の明治39年のこと。この本が活字本となって、広く読まれるようになると、書き込まれた内容の深さに打たれ、学び研究する人が次第に増えて行った。『葉隠』は「葉隠論語」とも言われ、江戸期の古典哲学書となった。民主主義の現代に、封建制度を支えた武士道を語るのは、「木に竹を継ぐようなものである」が、正義・倫理を揺るがせにしない『葉隠』の精神・真髄をのぞいて見るのも大切なことと考える。
2.山本常朝の恩師二人の存在と影響
第2代藩主光茂は歌道に熱心で古今和歌集の解釈について、最高の栄誉である「古今伝授」を受けるのが宿願であった。若殿綱茂のお相手も仕事と心得、たびたび出仕していたが、いつの間にか役目を外された。江戸参勤のお供も次第に無くなり、無為の日が続き情熱も萎えて武士を捨てようとまで悩んでいた。そこで佐賀市大和町に隠棲している湛然和尚を訪ね教えを請うた。彼は鍋島家菩提寺(高伝寺)の第11代住職を務めた禅僧。常朝は住職のもと修行を積み仏法を学んでいる。葉隠四誓願の一つに「大慈悲を起こし人の為になるベき事」がある。これは前の三誓願とは思想が異なり、仏教より学び取った精神である。『葉隠』の原文は次の様に述べている。「武士たる者は、忠と孝を片荷にして、二六時中、肩の割入る程、荷なうてさへ居れば侍は立つなり」と。もう一人の師は佐賀藩随一の儒学者石田一鼎である。初代藩主勝茂に仕え、その遺命によって光茂の御側相談役となった。彼は孤高剛直の人で光茂が「追腹禁止令」を打出した時、異論を唱えて退けられた。伊万里の山代郷に幽閉。寛文2年(1662)、8年間の蟄居が解かれ大和町に移り住んだ。常朝は彼のもとで儒教を学んでいる。
※「葉隠四哲」と言う人物がいる。葉隠の主役は山本常朝と田代陣基であるが、常朝の恩師である湛然和尚と石田一鼎を抜きに語ることは出来ない。この4人を称し、佐賀では、葉隠の四哲と呼んでいる。
【後編へ続く】